今朝の祈りの集いでは、"神様のために働くこと"を深く考えました。

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 今朝はビーズを入れる小さな入れ物を手にした子どもたちが、2階へ2階へと階段をあがっていきます。そうです。今日は祈りの集いの日です。司式は6年の奥 清二郎教諭です。

 後ろまでいっぱいになった聖堂で、「みなさんのまわりに一人ぼっちになって悲しい思いをしている友だちはいませんか?」奥教諭は静かに話し始めました。「Aちゃんは、くさいとかきたないって言われて遊びにもなかなか入れてもらえません。でもBちゃんは、そんなAちゃんとずっとお友だちでいました。ところが、Aちゃんをいじめる子どもたちは、今度はBちゃんに、そんなことをしているとBちゃんが仲間はずれにされるよと言い続けたのです。1年が過ぎたころ、とうとうBちゃんは耐えられなくなって、Aちゃんをいじめる側に入っちゃったのです。」子どもたちは真剣に聞いています。「席替えがあっても、Aちゃんのいる前で隣になった子に『頑張ってね。』なんて言ったり、その隣の子もAちゃんの机と自分の机を離して『大丈夫。離しているから。』なんていうことを平気でいうのです。Aちゃんのプリントもまるで汚いものにさわるかのように、Aちゃんの上に落とすのです。Aちゃんはどんなにか辛かったか...。みなさん、わかりますか?」聖堂は水をうったようになりました。「こんなとき、神様のために働くってどうすることでしょうか。そう、困っている友だちがいたら、すぐに先生に知らせること。先生に言えなければおうちの人に言うこと。友だちでもいい、誰でもいいから、こんないじわるやいじめで困っている人がいるって知らせることなんだね。それが神様のために働くってことだと先生は思います。」短いお話でしたが、子どもたちにまっすぐに入っていったように思います。

 いじめはひっそりと巧妙に行われます。発見が遅れたとき「何も本人から訴えがなかったから」などという教師がいますがとんでもありません。いじめられている本人が訴えるなど、絶対にできないのですから。またいじめは子どもの力では解決できません。どんなことがあっても、絶対にいじめを許さない!何があってもいじめの構造を見つけて叩き壊す!という、学校としての強い意志が全教職員にみなぎっていなければ、神様のために働くことはできないんだ。そう強く感じた祈りの集いでした。