先日のフリー参観の際に今年から初めての試みとしまして、子育て講座を行いました。かなりハードな時間設定でございましたので、ご来場いただけないみなさまもございました。参観のご感想のなかで、講座で話した内容を教えてほしいとのご要望もございましたので、以下、少し長くなりますが、掲載させていただきます。本当に人を信じるということが危うくまた難しくなってきた時代だと思います。だからこそ「こどもを信じる」ことは一大事業であり、子育ての核になるものだと思います。わたしなりに日頃考えていることをお話ししたまでですので、とりとめのない話になったことをお詫びいたします。けっしてこの考えが正しいわけでもありません。ひとつの考え方として、子育てについてお考えいただく材料のひとつにでもしていただければ幸いです。
おはようございます。今日はフリー参観ということでご来校いただきましてありがとうございます。そして参観中の短い時間ではありますが、子育てについてご一緒に考えてみたいと思いまして、このような企画をいたしました。本日を含めて3回の企画ですが、本校の管理職が話題提供を行う形ですすめてまいります。どうぞよろしくお願いいたします。
さて今日考えたい話題は「子どもを信じる」ということであります。みなさんは我が子を心から信じておられますか?それとも嘘を言うことも時々あるため、そう単純には信じるとは言い切れないという方もあるかもしれませんね。ここ5年ほどのことでしょうか。子どもが学校で友だちとトラブルをおこした場合などに、お母さんの口から数多く耳にするようになった言葉があります。それは「わたしは子どもの言うことを信じてやります。わたしが信じてやらなければ誰が信じてやるのですか。」といった言葉です。かりにA君とB君がけんかをしてそれぞれが相手が先に手を出したと言い張ったとします。学校でもできるだけ双方から事情を聞き取り指導にあたるわけですが、その場では自分に非があったことを認めていたA君が自宅に帰り事の顛末をお母さんに話している間に、学校で話していた事実とは違う話をお母さんに訴える場合があります。学校ではできるだけ早く正確に、あったできごとの概要と、子どもたちから聞き取った内容を該当の保護者のみなさまにお知らせすることを心がけています。ここの部分が学校の責任として大変重要であることは言うまでもありません。それでもこのように自宅で話が翻る場合があります。このようなときに「わたしは子どもの言うことを信じます。」とA君のお母さんが強く主張されると話は一気にややこしくなります。B君にとってもA君と先生の前で了解した事実が翻るとなると到底納得できるものではありません。事実ではないのですから。こうしてどこまでいっても両者の見解は混じり合うことはなく、解決できないままにそれぞれに不信感が残ってしまいます。もちろん親が子どもの言うことを信じることの大切さには全く異論も無いわけですが、この事例のような場面に立会いますと、はたしてこのようなことが子どもの成長にとって良い実りをもたらすのだろうかと考えさせられます。
少し古い話になりますが、わたしが新米教師として働き出した25年ほど前にも同様に「子どもを信じる」というテーマで忘れられない事例が二つあります。ひとつは初めて担任した3年のクラスにKちゃんという可愛いおかっぱ頭の女の子がいました。おとなしくて友達と教室で楽しく話している姿もあまりありません。でもKちゃんはわたしと目が合うとニコッと笑ってくれる真面目な女の子でした。2学期も終わりに近づいたころになってもこれといった友達ができるわけでもなく、毎日帰るのも一人ぼっち。わたしはだんだん不安になってきて、このことをご両親にお伝えしようとある日家庭訪問をしたのです。京都北山で杉を育てておられたお父さんの言葉は次のようなものでした。「先生、杉の木を一人前に育てるのにも90年かかります。今元気だからといって、その木が素晴らしい木に育つとも限らない。ときには周りの木に悪い影響を及ぼす恐れがある場合には、思い切って切り倒すのもわたしの仕事です。ところで、娘も今教室でひとりでいるからといって、将来まで友達ができないなどとは思いません。手前味噌になりますが、あの子は自分に合わない友達とは無理をしてまで付き合おうとはしない子です。だからまだ自分にぴったりの子どもに会えてないのだとわたしは思います。先生には本当に心配をかけて申し訳なかったけれども、もうしばらく見守ってやっていただけませんか。」たかだか8か月くらいしか見ていない自分の見方の浅さが恥ずかしくなったのを覚えています。その後の彼女は希望の学校に見事進学していきましたが、お父さんの予想どおり高校に入って無二の親友をひとりだけ作り充実した学校生活をおくり卒業していったとのことでした。
もうひとつの事例は4年生のT君という子どもの話です。T君はなかなか元気な子どもでしたが、ある日、友だちの持ち物を隠すといった事件を起こしてしまいました。厳格なお父さんとは聞いていましたが、翌々日に学校を訪ねられたときの保護者の言葉にはビックリしたのを思い出します。「このようなご迷惑を学校にまでお掛けした以上、退学させるのが、この子のためです。長いことお世話になりました。」なんと退学されてしまったのです。
前のお父さんといい後のお父さんといい、けっして子どものいうことを信じるといった話は一度も出てきませんでしたが、子どもをよく知り長期にわたる見方をしておられたことが印象的でした。「子どもを信じてやらねば」ではなく、むしろ誰からでも信じてもらえるような子どもに育てるにはどうすれば良いかを真剣に考えておられたという点で参考になります。特にT君の事例では、担任として決して学校を辞めさせるのがベストではないと思いましたが、子どもにおもねない厳しい決断をくだすことでこの子の将来は親の教育にかかっているという責任感と、何としても立ち直らせてみせるといった、親の迫力を感じた事例でした。
このふたつの事例に共通するのは、非常に長期のスパーンで子どもの育ちを見守っておられるということです。その大切さを改めて痛感させられるような事件がここ1・2年続発しています。たとえば大学生を中心に蔓延していた大麻の問題。不法所持等で逮捕された学生は数多くが難関の有名大学でありました。また先日の教員養成系の大学生の不祥事。おそらく相当高い学力がなければ入学できない大学であります。このような事件を起こしたとき、その保護者の驚きたるやどのようなものであったでしょうか。おそらく、「信じられない。」の思いに言葉を失ったのではないでしょうか。しかし同世代の子どもを持つ親として、他人事ではすませられないとわたしは思っています。どんなにまじめに勉強して、良い学校に入ろうとも、いたるところに誘惑の罠は存在するわけで、そこで報道される子どもがわが子になる可能性は否定できません。おそらく「子どもを信じて」いい子に育てた教育熱心な家庭の子どもでも、簡単にそういった行為を起こしてしまうことをこれらの事件は示しています。
いったいそうならないために何が必要なのでしょうか。はっきりしているのは、親の目から見て、勉強さえ真面目にやっていれば大丈夫ということではないということです。わたしは、当り前のことではありますが、「本当の親子の信頼関係を築く」ということに尽きるのではないかと思います。冒頭の事例で、事実と違うことであっても親の前で自分の都合の良いように主張する子どもを紹介しました。この子の嘘を見破るのは誰の責任でしょうか。いうまでもなく親です。もし見破ることができず、「この子を信じてやりたい。」とその嘘にだまされた瞬間、親子の信頼関係はいとも簡単に崩れさると思います。「なんだ、大人をだますのなんて簡単なことだ。」ということを逆に学習した子どもは、その後もさまざまな場面でこの手を使うことになります。たとえそれが違法であっても「見つからなければ大丈夫。」「みんながやっているから大丈夫。」などという甘い判断を行うようになります。こういった大人や社会を「なめる」ことが犯罪を犯してしまう土壌にあるのではないかと思うわけであります。
では親が子どもを信じるとはどのようなことなのでしょうか。聖書には「放蕩息子のたとえ話」という箇所があります。そこには親の私財をあらゆる遊びに使いつくした息子が自宅に帰ってきたことを、外に出て駆け寄り抱きしめて喜んだ父親の姿が描かれています。わたしはここに無条件にわが子を受け入れる究極の父親の姿を見ます。子どもはある条件があるから、この親のもとに産まれてきたのではありません。同様に、どのような状況であろうと子どもを受け入れることこそが、その根本になくてはならないのではないかと思うのです。もっとも、矢野神父様から興味深いお話を伺いました。神父様が関わられている大阪刑務所には死刑囚も収容されていて、定期的に神父様がお話に行かれるわけですが、死刑が執行されたのちに遺骨を受け取りにくるのは100%母親だそうです。考えさせられる話ですね。母親とは本当に有り難いものです。ここでいう「受け入れる愛」は子どもの言うことを盲目的に信じることとは本質的に違います。こういった子どもと自分を繋ぐものは何であるのか。特に子どもが反抗し、親の考えどおりにいかない時にこそ、それをしっかりと親自身が直視して確認することが、子育てのうえで大切ではないでしょうか。「子どもに嫌われたくない。」と思うのは人情です。教師にもそんな考えがよぎることが往々にしてあります。ところが、そんな考えを子どもは本能的に察知します。足元を見るとでもいうのでしょうか。ぐずれば、何とかなる。「みんなだってしてる。」と抵抗すれば必ず折れる。こんな考えを親にも教師にも抱いたならばその後はどうでしょうか。もう手遅れになります。いったん緩めたものはもとにはもどらないのです。
したがって、どんなに抵抗しようともだめなものはだめ、みんながやっていようがだめなものはだめと、けっしてこどもにおもねない強さと、そんなことで親子の信頼関係がおかしくなったりはしないのだという強い信念が必要です。さしあたっては、「携帯電話を買って。」と言い出します。もう少し大きくなれば「外泊させて。」と言い出します。成長とはそういうものですが、あらゆることが魅力的に見え親への要求に反映してきます。他の友だちからも「お前のとこの親、ものわかりが悪いなあ。」「かたい親やね。」と子どもが言われることも覚悟しておかねばなりません。今の時代こそ、昔わたしたちが親に言われたように「よそはよそ。うちはうち。そんなによそが良かったらよその子になれ!」と言い切れることが大事です。そして、どんなに対立しようとも揺るがない関係をしっかりと作っていくことが、「子どもを信じる」ということの核になければならないと思うのです。
ちょっと最近あった私事で恐縮なのですが嬉しいできごとをお話します。高校3年の息子は幼いころから泣き虫で、すぐにピーピーと泣くので「男のくせに泣くな!」とよく叱りました。5歳のころこけた息子にまたそう叱ると、なきじゃくりながら「親やったら大丈夫かって助けてくれたってええやろ!」と大声で泣き叫んだこともあります。その息子が高校の更衣室でポケットに入れていた財布を盗まれるという事件がありました。財布は高校入学祝に買ってやったものでしたが、なかには何千円かのお金と定期があったというのです。「僕な、みんなの前で泣いてん。先生の前でなんかもっと泣いたわ。」そう話す息子に情けない子やなあと思ったのですが、どうしてそれほど泣いたのかと尋ねると「不登校で中学校に行けなかった自分がやっと高校に入れてもらえて、そのお祝いに父さんが買ってくれた財布やったから、僕にとってはお金や定期よりどうしても財布が大事やったんや。これを見て高校を頑張ってきたから。」と胸がキュンとなるような話をしたのです。わたしにとっては、これがひとつの繋がりの確認になりました。財布というモノですが、そこにこめられた思いを受け取ってくれているというのは嬉しい出来事でした。
長々と話してまいりましたが、どんなときでも話をじっくりと聞いてくれるしわかろうとしてくれる。しかし、絶対にだませない厳しさをもっている。だからこそ、この人を悲しませるようなことはしてはならないのだと思わせることが、「子どもを信じる」うえでは大切なことではないかと思います。そしてこのような関係は学校だけとか家庭だけでできるものではありません。学校と家庭が同じ価値観をもって、まさしく両輪のようになって実現していけることであります。今後もどうか本校の良きパートナーとしてご支援ご協力をいただけましたら幸いでございます。以上で本日の話を終わります。ご静聴誠にありがとうございました。