July 2009 Archives

 今朝は、ホームステイに替わる大山での乗馬体験合宿に出発する子どもたちを見送りに、京都駅に向かいました。本当ならばオーストラリア・アデレードを訪ね、現地のセント・アンドリュース校の生徒さんと交流しホームステイを体験するはずでしたが、新型インフルエンザの大流行を受けて、中止せざるを得なくなったのです。「このホームステイをずっと五年間楽しみに英語も頑張ってきていたのです。」という保護者のみなさまのお声を聞くたびに、仕方がなかったとはいえホームステイが実施できなかったことは残念でなりません。何としても楽しい合宿を...というのも、見送りにおこしいただいていた保護者のみなさまみんなのお気持ちだったと思います。少し天候が不順な今年の夏ですが、大自然豊かな大山の麓で、馬を相手に楽しい体験を積んできてくれることを願うばかりです。

 

 幼いころ、夏休みにも何故か昼寝をするのが、我が家のきまりでした。昼食をとったあと、縁側で座布団を半分に折った枕で寝るのが慣わしでした。今のようにクーラーなど、どこの家にもついていない時代です。「田」の字型の旧い木造家屋でしたので、あけっぴろげた襖を夏の暖かい風が通りぬけていくのですが、大きな団扇で風をおこしていると、時折スーッと涼しい風も吹いてきます。「やったあ。」と子どもながらに得した気持ちになったのを覚えています。5月のブログにもこうして鯉のぼりを眺めていた思い出を書きましたが、今となっては家族で毎日昼寝をしたことも良い思い出です。

 いつかわが子も成長して家を出て行きます。そんなときに離れて暮らすわが子の心に浮かぶ我が家の原風景とはいったいどんなものなのだろう、とふと考えます。おそらく何気なく繰り返していた平凡な慣わしこそが、一番の原風景になるのではないだろうか。夏休みは、平凡でも穏やかな家族の営みを親子が一緒に体験することによって、それを心に刻みつける絶好の機会になると思います。

夏休みがやってきました。

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 終業式の日、ひとりひとりを校門で見送りました。「元気でね。」「楽しい夏休みを!」と声をかけながら、ある子どもとはタッチを交わし、ある子どもとは笑顔でしばしの別れをしました。なかには、「校長先生、お世話になりました!先生もお元気で。またお会いしましょう!」なんてきちんと挨拶をしてくれた人もありました。みんなとの元気な再会を心から祈るばかりです。

これに先立つ終業式では「こんな夏休みを過ごしてください。」と話したことが三つあります。ひとつは何と言っても「楽しい夏休み」でなければなりません。事故や事件に巻き込まれずに40日間元気に過ごして、自分がやりたいと思う大好きなことを、思う存分時間をかけてやってほしいと思います。ふたつめは「頑張る夏休み」にしましょう。早起きをしようでも、運動をしようでも、お手伝いを頑張ろうでも何でもいいのです。ふだんの生活では少しできていないなあと思ったことを、粘り強く続けてみることも大切な体験です。最後にみっつめは「喜んでもらえる夏休み」にしようということです。お手伝いをして家族に喜んでもらえるのもすばらしいし、挨拶を元気に気持ちよくやることでご近所の方に喜んでもらえるのもいいことです。自分の行動で誰かが気持ちよくなったり、嬉しくなったりする体験をぜひ、積んでほしいです。

夏休みに入って10日間が過ぎました。みんな元気で楽しい夏休みを過ごしてくれることを心から願いながら、再会できる日を学校でお待ちしています。

合唱団のミニコンサートが開催されました。

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 今日は中間休みの時間を使って、合唱団の第1回ミニコンサートが多目的室で開催されました。会場には30人を超える保護者のみなさまと、1年から6年までの可愛い聴衆がフロアーを埋め、多目的室は最高のコンサート会場となりました。この日に向けて団員が手作りで作ったポスターを手に全校を熱心にご案内にまわったおかげだと思います。本当に練習にも熱心に参加してこの日を迎えました。

 始めに聖歌「大波のように」「アヴェマリア」を発声に気をつけて、お空に響くように歌いました。そして「歌よ、ありがとう」では初めての二部合唱を楽しみました。最後の曲は「ぼくたち地球人」。かわいく踊り、会場からたくさんの拍手をいただきました。今日の初舞台は、団員、そしてお客さまのたくさんの笑顔と出会えた、本当に本当に幸せな時間になったように思います。「可愛くて...歌を聴いていると涙が出ました。みんながとても楽しそうで感動しました!」参観されていた保護者の方のお話でした。

 以下は団員の感想をご紹介します。

     とても緊張しました。けれども見にきてくれたお友だちや先生はとても笑顔になっていました。合唱団のみんなも元気いっぱい、笑顔いっぱいで歌えたのでとても嬉しかったです。

     お母さんは来れなかったけれど、クラス全員、4年全員が来てくれたので嬉しかったです。先生たち、1年生のみんな合わせて150人くらいいました。「すごく上手だったよ。」と先生が言ってくれました。

     ポスターを作るとき、みんなで休み時間、一生けんめい作って、みんながわかりやすいように作ったから、たくさんの人が集まってくれたのだと思います。担任の先生が来てくれて「感動した。泣きそうだった。」と言ったのでわたしはとてもびっくりしました。6年生まで絶対続けたいと思います。

合宿が終わり1年生は「家族」になりました。

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 1年生の合宿が昨日から1泊で行われ、元気に帰っていきました。「もっと学校で泊まりたい。」なんて可愛いことを言ってくれる男の子もいましたが、やっぱりおうちが一番。今頃楽しかった思い出を家族の方々に夢中でお話ししてくれているかもしれませんね。

 昨日はみんなで「水に浮かぶおもちゃ」をつくったあと、水着に着替えて「はだしの広場」で甘い甘いスイカをいただきました。それからおもちゃを手にプールに直行して水遊び。夏のお日さまのもと思う存分楽しみました。夕食のカレーライスはおかわりをする子どもが続出!びっくりするくらいよく食べてくれました。夜はたくさんの先生たちがいろいろな教室でゲームやクイズを用意して待ってくれているのを回る「校内オリエンテーリング」に熱中。その後みんなのお布団をしいた体育館の真ん中のキャンドルツリーを囲んで聖歌を歌う夕のつどいをして眠りました。今朝はみんなで早起きをしてお布団を片付け、聖堂でお祈りをしてから楽しく朝食をとりました。その後合宿で頑張ったことを作文に書いて合宿が終わりました。

 合宿を指導した4人の教員から話を聞きました。

「工作に熱中したあとはプールで大はしゃぎで遊び、夜はぐっすり眠る。みんなのために係りの活動もしっかり取り組んでくれました。みんなの元気なところが素敵でしたよ。」(丸橋教諭)「普段はやんちゃな男の子が、夜のお楽しみ会で暗い校内を歩く時は無口で顔がこわばっていましたね。先生の手もぎゅっと握っていました。反対に日頃おとなしい女の子が先頭をきってみんなを引っ張っていくのが、なんとも凛々しかったです。」(芝教諭)「可愛いなと思うシーンはいっぱいありましたが、特に今朝、お布団のうえで起こされたとき、寝起きのボーっとしたひとりひとりの様子が、たまらなく可愛いかったです。」(村田教諭)「自分たちでルールを守って生活をする良い体験になったと思います。これを活かして、良いこととやってはいけないことの判断がしっかりとできるようになっていってほしいですね。」(長谷川教諭)

 『同じ釜の飯を食う』という言葉がありますが、この合宿で文字通り1年生は「家族」になりました。辛いときも苦しいときも一生にわたって、あるときは本当の家族以上に助け合っていく「家族」です。さらにいっそう友情を大切に育てていかねばと思います。

 野球で「ライパッチ」と言えば何のことかおわかりでしょうか。草野球では、一番守りの下手な者がライトを守り一番打てない者が8番打者と決まっていたのを略して「ライパッチ」と言ったのです。今日はひとりの「ライパッチ」君の活躍を書きます。

 今日の午前中、待ちに待った5年生のラケットベース大会があり、男女に分かれてクラス対抗のゲームをしていたので応援にいきました。何度かクラスや休み時間に練習したのでしょう。女子もなかなか上手でスムーズにゲームが行われていました。男子の中にはベルナデッタホール側から大運動場の東側のネットまでホームランをかっ飛ばしたツワモノもいて、暑い晴天の中でしたが大いに盛り上がり楽しい思い出ができました。

 そのなかで、心に残った場面があります。4年のころから野球をしにくるのだけれど、全く打てず守れずの「ライパッチ」君の彼が、まさに今のバッターでした。「打てるかな。」とわたしが思った瞬間、パコーン!!快音が響きボールは外野にとんでいました。2塁打です。「すごい!すごい!」わたしは思わず拍手をしました。「あいつ、先生と特訓したおかげやな。」子どもたちの話から、どうやら今日までの間、担任と打つ練習を何度も休み時間にやっていたようなのです。そのときです。誰か2~3人が「代走や、代走!代われや。」と大声で彼に指示をしています。まだ「ライパッチ」君のイメージが強かったのでしょうか。わたしは思わず叫んでいました。「何で彼だけが代走なんや?何で彼がランナーやったらあかんのや?」彼はへただから外してしまえというこの子たちの傲慢な考えが許せませんでした。彼は次のバッターのヒットでホームイン。立派にランナーも果たしたのでした。「良かったなあ!」とハイタッチをするわたしに満面の笑顔をくれたのは言うまでもありません。

この彼のヒットを少し離れていたところで見ていてくれたのが、彼の担任でした。「打ちましたね。しっかり見てました。やればできますね。どの子にもしっかりと遊ぶ力をつけてやれば、誰とでも対等に遊べる。だから一緒にやらないといけないと思っています。」

担任ならではの「ライパッチ」君への温かいまなざしに心が熱くなった瞬間でした。

親の影響力はすごいものです。

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 「校長先生、犬や猫、何で嫌いなん?」最近よく1年生から尋ねられます。学級委員広報部のみなさまが発行してくださっている広報誌「こもれび」の自己紹介の欄に「嫌いなもの」として書いたのを読んだのでしょう。犬好き、猫好きな方には理解できないでしょうが、どうしても彼らとうまくコミュニケーションがとれません。担任時代、家庭訪問で尋ねた家の玄関に大きな子牛くらいもある番犬がいて、どうしても近づけなかったことがあります。今なら携帯電話がありますが、当時は連絡することもできず、彼と離れて睨みあっているうちに、あまりに遅いのを心配して出てきていただいて事なきをえたということもありました。おうちの中に犬や猫を飼っておられる場合などはもう最悪です。たいていは飼い主にするようにペロペロと手などをなめたりするものですから、そればかりが気になって話にも全く集中できなかったことを思い出します。そのうち犬や猫も「こいつは自分を苦手だと思っているな。」と気づくのでしょうか。やたら挑発的な鳴き方をしてくることがよくありました。ぜひともわたしが伺うときだけでも、ひもで繋いでおいていただければ、と思ったものです。

 これほどまでに苦手になったには、わけがあります。それは父が極端に犬や猫が嫌いだったことです。それを知らずに小学1年生のときに川べりに捨てられていた子猫を5匹くらい、ダンボールに入れて「飼いたい。」と持って帰ったことがあります。当然烈火のごとく叱られました。母はそうでもなかったのですが、父の手前、許可はできなかったのでしょう。今は亡き祖母と一緒になくなくまた捨てにいったことがあります。子猫はどうなるんやろう、と子どもながらに理不尽だと思ったことを思い出します。そんなわけで我が家は犬や猫とは鎖国状態となり、コミュニケーションをとる術を身につけないまま、犬に吠えられたり、猫に舐められたりしているうちに「嫌い」になってしまったというわけです。

 改めて親の影響力の怖さを思い知ります。「子どもは言うとおりにはしないが、親のするとおりにする。」けだし名言ですね。

保護者会によるAED講習会が開かれました。

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 今日は学級委員・文化教養部の保護者のみなさまが主催してくださり、保護者対象のAED講習会が午前10時より開催されました。大阪ライフサポート協会のお世話により、医師、看護師、救命救急士の方々を含む7人のスタッフが来校してくださいました。保護者のみなさまの関心も高く、定員を超える63名の方々が熱心に講習を受けてくださいました。

 まず映像により心肺蘇生のための胸骨圧迫の方法をわかりやすく教えていただいたほか、AEDの正しい取り扱い方も教えていただいて、いざ実習です。最新の胸骨圧迫の練習機を使い、全員のみなさんが正しい圧迫のリズムや強度を体験していただきました。そして、いざと言う時にはまず何を一番にしなくてはならないのかも教えていただきました。保護者の方々も二人組になり、実際に「119番で救急車を呼んでください!」「AEDを持ってきてください!」などと大声をだして実習しました。またAEDについても簡易の練習機を使いダミーの人形に使用して、練習に取り組みました。「本当に熱心に取り組んでいただき、とても教えるほうもやりがいがありました。」と協会の方からもお言葉をいただきました。(この様子は明日6時10分からのNHKニュースで紹介される予定です。)

 今や学校や官公庁のみならず、駅などの公共の施設にも数多くAEDが設置されるようになりました。けれども、扱うのは、その緊急の現場に居合わせた人になります。先日の東京マラソンで心肺停止となった芸能人の方が、このAEDで蘇生したというニュースはまだ耳に新しいところです。「ぜひとも、先生方、保護者のみなさん、そして子どもたちにも、自分が命を救う鍵を握る一人になることを想定して、その場に居合わせた人と協力して自信をもって動けるようになっていただきたいのです。ひとりでも命を救えるようにこれからも協力は惜しみません。ぜひ広めてください。」お別れする際に協会の方から託された言葉です。とても貴重な講習会となりました。

今日から蝉が鳴き始めました。夏本番です。

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「蝉や!蝉が鳴いてる!」正門前の横断歩道でひとりの4年生の男の子が空を見上げて叫びました。一緒に雑談していた声が一瞬にして静まります。「ジリジリジリジリ...」「ほんまや。蝉や!」鳴き声は聖母セミナーハウスの樹木の梢のほうから響いてきます。そうです。とうとう、キャンパスでは今日から蝉が鳴き始めました。みなさんのお近くではどうでしょうか。また、どんな蝉が生息しているでしょうか。本校に勤務してわかったことなのですが、なんとキャンパスの蝉は100%クマゼミです。大型で黒い胴体に透明のはねをもっていて、重い鳴き声で鳴きます。子どもの頃、田舎で追いかけた蝉は茶色と白のまだらのはねを持つニイニイゼミか、こげ茶色のはねを持つアブラゼミと決まっていました。それしか見たことのないわたしは、本校の桜並木のクマゼミの大群には驚きました。今年は夕べあたりから地面をはい出して樹上に登ったのでしょうか。この夕方には、もうすごい鳴き声がキャンパス内に響いています。

虫のことでいいますと、最近虫が入った飼育箱を大事にかかえて登校してくる子どもたちが何人もいます。そうでなくても荷物が多いのに、電車に乗るのにも、丘を登ってくるのにも大変だったろうなあと思うのですが、虫好きな小学生が多いのは今も昔も同じです。樹木の多いキャンパスだけに天然のクワガタムシを捕まえる子どもがひとり出るやいなや、一気に虫取りブーム。今は森のなかで6年の男の子を中心に熱中している子どもがたくさんいます。お金を出せば高い立派な昆虫が簡単に手に入るこんな時代だからこそ、「自然のなかにいる昆虫を自分で探して自分の手で捕まえる」ことが、子どもたちにとっては限りなく魅力的なことで、自慢できることなのでしょう。子どもたちに育っている感覚がとても正常で子どもらしくて嬉しくなります。

経験された方ならおわかりですが、虫取りのような自然相手の遊びは、思うようには簡単にいきません。こうしたら必ず捕れるということもありません。だからこそ、工夫も生まれ、捕まえた喜びも大きいのです。このキャンパスで、今年もときめくドラマが生まれる夏であってほしいと思います。

 

美しい七夕の笹飾りが揺れています。

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 七夕を迎えました。昨日のブログに関連して、去年「どうやったら、ぼくは強くなれますか?」と尋ねてきた男の子がいました。「優しいことが本当に強いことだよ。」と伝えた彼も2年生。その彼が朝校門にいるわたしをわざわざ訪ねてきてくれました。透明のファイルに入った何枚もの紙から1枚を取り出し「校長先生、これ先生にあげようと思って。去年マリア様の実践で色ぬりをしたのを思い出して、家で七夕のぬりえを作ったのです。1年生にあげたいなあと思ってコピーして持ってきました。」彼の手作りのぬりえには、可愛いおりひめとひこぼしの間には天の川が流れハートマークも入っています。まわりには1年生にもわかるように、折鶴の折り方が順に8枚の図で示されひらがなで解説してありました。「どう?ちょっとは強い自分に気づいた?」と尋ねると「うん。気づいた。1年生や友だちにも優しくできるようになりました。」グロッド前での、ステキな七夕の再会となりました。

 34時間目には多目的室で、12年合同の生活科の授業があり、七夕の笹の飾りつけをしました。ひとりひとりの願いを書いた短冊が金銀の色紙とともに笹に吊るされ、華やかに1階の廊下に飾ることができました。願いがかなうといいですね。

 午後からは1年保護者のみなさまの親睦会がベルナデッタホールでありました。学級委員のお母さま方のてきぱきとした進行のもと、親子でリレーをしたり、ゲームをしたりしながら楽しいひとときを過ごすことができました。4月に入学した1年生も3ヶ月の学校生活を経て、すっかりと慣れてくれたように思います。どのお子たちも、みんなみんな元気なのが今年の1年生の特長です。その1年生の校内での1泊合宿も来週に迫りました。みんな元気に参加して、忘れられない思いでをいっぱい作ってほしいものです。

 

「弱さ」について考えました。

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 「『強きは懐かしがらず』という言葉を知っていますか。」今学期最後の祈りの集いで、矢野神父さまが語りかけられた言葉です。意味は学校時代に強い!よくできる!と威張っていた人は、卒業して何年も経ってもクラスメートから「会いたいな。」と思ってもらえないということです。「キリスト教を世界中にひろめたパウロという人は、身体が決して頑丈な人ではなく発作が起きる体質をもっていました。何度も何度もその自分の弱いところに悩んだパウロは、弱いからこそ神さまをたよりにしたのです。そのことが、パウロを本当に強い人にしました。弱いことが本当の強さになることを忘れないでください。」神父さまのお話はそのような内容でした。

 強い人間でありたいと思うのは当然のことですし、弱いことは恥ずかしいことだと思って自分でも見つめたくもないし、できることなら隠しておきたくなるのが人情でしょう。けれども神父さまのお話を聞きながら、ひょっとすると誰にでも弱いところは公平に与えられていて、そこにこそきっと人生を通して神さまと自分の絆を確かめるヒントが、まるで宝探しのように埋まっているのではないかと思えてきました。

また親子の絆を感じるのも間違いなくこの弱いところです。弱いところがない百点満点の子どもだと思えば、叱ることも無く何の心配も感じないのでしょうが、まずそのようなことはありえません。弱いところがあればあるほど、叱ることも多くあり手もかかります。あれや、これやと不安にもなります。けれどもこのわが子の「弱さ」のおかげで親は本当のわが子の親に成長していくことができます。

 「弱さ」は間違いなく神さまが人間に与えてくださる、お恵みだと思います。

たくましい女の子が育っています。

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 今日の主役は6年生の女の子9人です。「先生、ラケットベース見てもらえませんか?」女の子が職員室にいたわたしのもとにボールを手にやってきました。今まで男の子が来たことは数多くありましたが、女の子が、しかも6年の女の子が来たのは、おそらくわたしが本校に勤務した11年間で初のできごとではないでしょうか!「いいよ!」ラケットを片手に大運動場に出かけると、そこには9人の女の子が集まっていて「校長先生、早く!」とわたしの到着を待ってくれていました。いよいよ、ゲーム開始。わたしはピッチャーです。ゆっくり投げるのですが、これをまた上手に打ち返します。日頃から男の子とよく遊んでいるせいか、ルールもよく知っています。驚いたのは打撃だけではありません。うちあがったフライを上手に受けたり、ゴロをとっては1塁に投げたりと、なかなか守備もさまになっているではありませんか。2アウトになったらチェンジとか、2周回ったらチェンジとかを決めていたのですが、どんどん点も入り、それでいてチェンジにもなって、共遊の時間に5回の表ウラくらいまではゲームが進みました。なかには強打者がいて、わたし目がけてピッチャー返し!ボールはすごい勢いでわたしの胸を直撃といった場面もありました。

 思い起こせば、野球をすることが禁止されていた本校で、今ではこうして女の子も上手に遊べるようになりました。オリンピックでの女子ソフトボールの快挙はまだ記憶に新しいところですが、つくづく「男子のほうが女子よりも上手で優れている」といった考えは大きな間違いであること、また練習次第でどんどん上達する力は男女平等に備わっていることを痛感します。いつか本校の卒業生の女子からも、野球選手が生まれるかもしれませんね。そして何よりも、こうして6年になっても友だちと遊びに夢中になれる6年生が育っていることを、嬉しく感じた休み時間でした。

子どもを信じるということを考えました。

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先日のフリー参観の際に今年から初めての試みとしまして、子育て講座を行いました。かなりハードな時間設定でございましたので、ご来場いただけないみなさまもございました。参観のご感想のなかで、講座で話した内容を教えてほしいとのご要望もございましたので、以下、少し長くなりますが、掲載させていただきます。本当に人を信じるということが危うくまた難しくなってきた時代だと思います。だからこそ「こどもを信じる」ことは一大事業であり、子育ての核になるものだと思います。わたしなりに日頃考えていることをお話ししたまでですので、とりとめのない話になったことをお詫びいたします。けっしてこの考えが正しいわけでもありません。ひとつの考え方として、子育てについてお考えいただく材料のひとつにでもしていただければ幸いです。

 

おはようございます。今日はフリー参観ということでご来校いただきましてありがとうございます。そして参観中の短い時間ではありますが、子育てについてご一緒に考えてみたいと思いまして、このような企画をいたしました。本日を含めて3回の企画ですが、本校の管理職が話題提供を行う形ですすめてまいります。どうぞよろしくお願いいたします。

 さて今日考えたい話題は「子どもを信じる」ということであります。みなさんは我が子を心から信じておられますか?それとも嘘を言うことも時々あるため、そう単純には信じるとは言い切れないという方もあるかもしれませんね。ここ5年ほどのことでしょうか。子どもが学校で友だちとトラブルをおこした場合などに、お母さんの口から数多く耳にするようになった言葉があります。それは「わたしは子どもの言うことを信じてやります。わたしが信じてやらなければ誰が信じてやるのですか。」といった言葉です。かりにA君とB君がけんかをしてそれぞれが相手が先に手を出したと言い張ったとします。学校でもできるだけ双方から事情を聞き取り指導にあたるわけですが、その場では自分に非があったことを認めていたA君が自宅に帰り事の顛末をお母さんに話している間に、学校で話していた事実とは違う話をお母さんに訴える場合があります。学校ではできるだけ早く正確に、あったできごとの概要と、子どもたちから聞き取った内容を該当の保護者のみなさまにお知らせすることを心がけています。ここの部分が学校の責任として大変重要であることは言うまでもありません。それでもこのように自宅で話が翻る場合があります。このようなときに「わたしは子どもの言うことを信じます。」とA君のお母さんが強く主張されると話は一気にややこしくなります。B君にとってもA君と先生の前で了解した事実が翻るとなると到底納得できるものではありません。事実ではないのですから。こうしてどこまでいっても両者の見解は混じり合うことはなく、解決できないままにそれぞれに不信感が残ってしまいます。もちろん親が子どもの言うことを信じることの大切さには全く異論も無いわけですが、この事例のような場面に立会いますと、はたしてこのようなことが子どもの成長にとって良い実りをもたらすのだろうかと考えさせられます。

 少し古い話になりますが、わたしが新米教師として働き出した25年ほど前にも同様に「子どもを信じる」というテーマで忘れられない事例が二つあります。ひとつは初めて担任した3年のクラスにKちゃんという可愛いおかっぱ頭の女の子がいました。おとなしくて友達と教室で楽しく話している姿もあまりありません。でもKちゃんはわたしと目が合うとニコッと笑ってくれる真面目な女の子でした。2学期も終わりに近づいたころになってもこれといった友達ができるわけでもなく、毎日帰るのも一人ぼっち。わたしはだんだん不安になってきて、このことをご両親にお伝えしようとある日家庭訪問をしたのです。京都北山で杉を育てておられたお父さんの言葉は次のようなものでした。「先生、杉の木を一人前に育てるのにも90年かかります。今元気だからといって、その木が素晴らしい木に育つとも限らない。ときには周りの木に悪い影響を及ぼす恐れがある場合には、思い切って切り倒すのもわたしの仕事です。ところで、娘も今教室でひとりでいるからといって、将来まで友達ができないなどとは思いません。手前味噌になりますが、あの子は自分に合わない友達とは無理をしてまで付き合おうとはしない子です。だからまだ自分にぴったりの子どもに会えてないのだとわたしは思います。先生には本当に心配をかけて申し訳なかったけれども、もうしばらく見守ってやっていただけませんか。」たかだか8か月くらいしか見ていない自分の見方の浅さが恥ずかしくなったのを覚えています。その後の彼女は希望の学校に見事進学していきましたが、お父さんの予想どおり高校に入って無二の親友をひとりだけ作り充実した学校生活をおくり卒業していったとのことでした。

 もうひとつの事例は4年生のT君という子どもの話です。T君はなかなか元気な子どもでしたが、ある日、友だちの持ち物を隠すといった事件を起こしてしまいました。厳格なお父さんとは聞いていましたが、翌々日に学校を訪ねられたときの保護者の言葉にはビックリしたのを思い出します。「このようなご迷惑を学校にまでお掛けした以上、退学させるのが、この子のためです。長いことお世話になりました。」なんと退学されてしまったのです。

 前のお父さんといい後のお父さんといい、けっして子どものいうことを信じるといった話は一度も出てきませんでしたが、子どもをよく知り長期にわたる見方をしておられたことが印象的でした。「子どもを信じてやらねば」ではなく、むしろ誰からでも信じてもらえるような子どもに育てるにはどうすれば良いかを真剣に考えておられたという点で参考になります。特にT君の事例では、担任として決して学校を辞めさせるのがベストではないと思いましたが、子どもにおもねない厳しい決断をくだすことでこの子の将来は親の教育にかかっているという責任感と、何としても立ち直らせてみせるといった、親の迫力を感じた事例でした。

 このふたつの事例に共通するのは、非常に長期のスパーンで子どもの育ちを見守っておられるということです。その大切さを改めて痛感させられるような事件がここ1・2年続発しています。たとえば大学生を中心に蔓延していた大麻の問題。不法所持等で逮捕された学生は数多くが難関の有名大学でありました。また先日の教員養成系の大学生の不祥事。おそらく相当高い学力がなければ入学できない大学であります。このような事件を起こしたとき、その保護者の驚きたるやどのようなものであったでしょうか。おそらく、「信じられない。」の思いに言葉を失ったのではないでしょうか。しかし同世代の子どもを持つ親として、他人事ではすませられないとわたしは思っています。どんなにまじめに勉強して、良い学校に入ろうとも、いたるところに誘惑の罠は存在するわけで、そこで報道される子どもがわが子になる可能性は否定できません。おそらく「子どもを信じて」いい子に育てた教育熱心な家庭の子どもでも、簡単にそういった行為を起こしてしまうことをこれらの事件は示しています。

 いったいそうならないために何が必要なのでしょうか。はっきりしているのは、親の目から見て、勉強さえ真面目にやっていれば大丈夫ということではないということです。わたしは、当り前のことではありますが、「本当の親子の信頼関係を築く」ということに尽きるのではないかと思います。冒頭の事例で、事実と違うことであっても親の前で自分の都合の良いように主張する子どもを紹介しました。この子の嘘を見破るのは誰の責任でしょうか。いうまでもなく親です。もし見破ることができず、「この子を信じてやりたい。」とその嘘にだまされた瞬間、親子の信頼関係はいとも簡単に崩れさると思います。「なんだ、大人をだますのなんて簡単なことだ。」ということを逆に学習した子どもは、その後もさまざまな場面でこの手を使うことになります。たとえそれが違法であっても「見つからなければ大丈夫。」「みんながやっているから大丈夫。」などという甘い判断を行うようになります。こういった大人や社会を「なめる」ことが犯罪を犯してしまう土壌にあるのではないかと思うわけであります。

 では親が子どもを信じるとはどのようなことなのでしょうか。聖書には「放蕩息子のたとえ話」という箇所があります。そこには親の私財をあらゆる遊びに使いつくした息子が自宅に帰ってきたことを、外に出て駆け寄り抱きしめて喜んだ父親の姿が描かれています。わたしはここに無条件にわが子を受け入れる究極の父親の姿を見ます。子どもはある条件があるから、この親のもとに産まれてきたのではありません。同様に、どのような状況であろうと子どもを受け入れることこそが、その根本になくてはならないのではないかと思うのです。もっとも、矢野神父様から興味深いお話を伺いました。神父様が関わられている大阪刑務所には死刑囚も収容されていて、定期的に神父様がお話に行かれるわけですが、死刑が執行されたのちに遺骨を受け取りにくるのは100%母親だそうです。考えさせられる話ですね。母親とは本当に有り難いものです。ここでいう「受け入れる愛」は子どもの言うことを盲目的に信じることとは本質的に違います。こういった子どもと自分を繋ぐものは何であるのか。特に子どもが反抗し、親の考えどおりにいかない時にこそ、それをしっかりと親自身が直視して確認することが、子育てのうえで大切ではないでしょうか。「子どもに嫌われたくない。」と思うのは人情です。教師にもそんな考えがよぎることが往々にしてあります。ところが、そんな考えを子どもは本能的に察知します。足元を見るとでもいうのでしょうか。ぐずれば、何とかなる。「みんなだってしてる。」と抵抗すれば必ず折れる。こんな考えを親にも教師にも抱いたならばその後はどうでしょうか。もう手遅れになります。いったん緩めたものはもとにはもどらないのです。

 したがって、どんなに抵抗しようともだめなものはだめ、みんながやっていようがだめなものはだめと、けっしてこどもにおもねない強さと、そんなことで親子の信頼関係がおかしくなったりはしないのだという強い信念が必要です。さしあたっては、「携帯電話を買って。」と言い出します。もう少し大きくなれば「外泊させて。」と言い出します。成長とはそういうものですが、あらゆることが魅力的に見え親への要求に反映してきます。他の友だちからも「お前のとこの親、ものわかりが悪いなあ。」「かたい親やね。」と子どもが言われることも覚悟しておかねばなりません。今の時代こそ、昔わたしたちが親に言われたように「よそはよそ。うちはうち。そんなによそが良かったらよその子になれ!」と言い切れることが大事です。そして、どんなに対立しようとも揺るがない関係をしっかりと作っていくことが、「子どもを信じる」ということの核になければならないと思うのです。

 ちょっと最近あった私事で恐縮なのですが嬉しいできごとをお話します。高校3年の息子は幼いころから泣き虫で、すぐにピーピーと泣くので「男のくせに泣くな!」とよく叱りました。5歳のころこけた息子にまたそう叱ると、なきじゃくりながら「親やったら大丈夫かって助けてくれたってええやろ!」と大声で泣き叫んだこともあります。その息子が高校の更衣室でポケットに入れていた財布を盗まれるという事件がありました。財布は高校入学祝に買ってやったものでしたが、なかには何千円かのお金と定期があったというのです。「僕な、みんなの前で泣いてん。先生の前でなんかもっと泣いたわ。」そう話す息子に情けない子やなあと思ったのですが、どうしてそれほど泣いたのかと尋ねると「不登校で中学校に行けなかった自分がやっと高校に入れてもらえて、そのお祝いに父さんが買ってくれた財布やったから、僕にとってはお金や定期よりどうしても財布が大事やったんや。これを見て高校を頑張ってきたから。」と胸がキュンとなるような話をしたのです。わたしにとっては、これがひとつの繋がりの確認になりました。財布というモノですが、そこにこめられた思いを受け取ってくれているというのは嬉しい出来事でした。

 長々と話してまいりましたが、どんなときでも話をじっくりと聞いてくれるしわかろうとしてくれる。しかし、絶対にだませない厳しさをもっている。だからこそ、この人を悲しませるようなことはしてはならないのだと思わせることが、「子どもを信じる」うえでは大切なことではないかと思います。そしてこのような関係は学校だけとか家庭だけでできるものではありません。学校と家庭が同じ価値観をもって、まさしく両輪のようになって実現していけることであります。今後もどうか本校の良きパートナーとしてご支援ご協力をいただけましたら幸いでございます。以上で本日の話を終わります。ご静聴誠にありがとうございました。

 いよいよ1学期最後の月が始まりました。昨日、今日とは幼稚園や保育園にお子たちを通わせておられる保護者のみなさまの学校見学がありました。先日行った入試説明会とはまた違って、子どもたちの普段の学校生活の様子をご覧いただこうと、今学期も何度も見学をお受けしてきました。このような機会には、おひとりおひとりとも身近にお話をさせていただき、また質問にお答えすることもできます。

 今日お越しいただいた方のおひとりが、「この古い校舎に足を踏み入れると、何だかほっとしますね。ただ古いというだけでなく温かいものを感じます。フランスの方々が思いをこめてこの学校を作ってくださったお気持ちが伝わってくるような気がします。」としみじみとわたしに廊下で語りかけてくださったのが、とても心に残りました。わたしがご挨拶のなかで、「本校を作ってくださったシスターたちが手に携えて持って来られた建設の資金は、名もないフランスの貧しい農民の方々の献金でした。ぜひとも殉教者を多く輩出した東洋の未知の国日本で、キリストの教えを伝えていただきたいという一心で、シスターに託された献金だったのです。」とお話したことをうけてのお言葉でした。初めてお見えいただいて、そのように感じていただけたことが、とてもとても嬉しかったです。

 この素晴らしい校舎を包むキャンパスの森にも、夏がやってきました。「先生、見て!つかまえてんで。」とクワガタムシを手にして見せてくれる子どもが、今年はとても多いような気がします。まもなく梅雨明けと同時に、蝉の大合唱も始まります。

校舎に、自然環境に命の息吹きと繋がりを感じる学校...「いのちがいっぱい」という言葉にこめた意味はそこにあります。