学校BLOG
2026.08.21
2学期始業式🌻
本日、2学期の始業式を行いました。
各教室をつないだオンライン形式での実施となり、生徒たちはそれぞれの教室からの参加💻

英検や部活動などで活躍した生徒たちの表彰が行われ、仲間の活躍にみんな拍手を送っていました👏✨

長い夏休みを終え、いよいよ2学期。さっそく授業も行われていました。
約1か月後には文化祭もあり、これから準備も本格化していきますね!
まだまだ暑い日が続きますが、いよいよ2学期のスタートです。🌻
さて、始業式での校長先生から生徒へ向けたお言葉をご紹介いたします。
私の家は、神奈川県の鎌倉市の、どちらかというとのどかな山の中にあるのですが、
今年の春に、私の家と最寄り駅の途中に新しい家が建てられ、
そこの家の庭では、かわいい一匹の子豚を買っていることがわかりました。
私は、月に一回くらいのペースで鎌倉に帰る度、その豚さんを見るのを楽しみにしています。
この頃は、暑いせいか、その豚さんを庭で見かけなくなったなあと思っていたら、
先日、その家の中の部屋の窓から、涼しそうな顔をして外を眺めているその豚さんを発見しました。
最初に見たころは子豚だったのですが、ずいぶんと立派な大豚さんになっていました。
もう20、30年くらい前に『ブタがいた教室』という映画がありました。今はネットで見ることができると思います。
どんな話の映画かというと、ある小学校に新任の若い先生が赴任してきたところから話は始まります。
その先生が最初に担任をしたのは6年生でした。
その先生はクラスのこどもたちに「学校でブタを一匹育てて、最後にはみんなで食べようと思います。」と提案します。
教室は騒然となります。その先生はきっと命の尊さを1年間にわたって教えようとしたのでしょう。
最初、ブタを嫌がっていた子どももいました。しかし、しばらくするとみんなこのブタと仲良しになり、
子どもたちは、ブタにPちゃんという名前をつけ、校庭に小屋をつくり、
当番を作ってえさをあげたり、掃除をしたり、フンの始末をしたりします。
そういうことが好きな子どもも、フンの始末までは、とてもとてもやれないと苦情を言うこどもや保護者も現れます。
しかし、クラスの子どもたちは、やがてPちゃんに家畜としてではなくペットとしての愛着を抱くようになっていきます。
約1年後、卒業の時は迫り、先生はPちゃんをどうするかみんなで話し合って決めてほしいと提案します。
クラスの意見は「食べる」「食べない」に二分されます。
実際には「食肉センターで食用肉にしてもらう」か「下級生に引き継ぐ」という投票だったと思います。
「食用肉にしてもらう」という意見の子どもたちの言い分は、豚はいつか死んでしまう。
歳を取って死んだブタは食用にならずに捨てられてしまうだけだ。それでは可哀そうだ。
そもそも、この豚は、食べてもらうために生きてきたのだから、自分たちの責任で食用肉にしてあげるべきだというものです。
一方で、「下級生に引き継ぐ」という子どもたちの言い分は、可哀そうだ。
最初は食べるつもりで飼っていたけれど、いろいろなことがあった。
Pちゃんが病気にかかったときはみんなで夜通し看病したことだってある。
それに、Pちゃんは、いつも自分たちのそばにいて、クラスを和ませてくれた。
体育の授業だってPちゃんは僕たち、私たちと一緒に走った。
もう、クラスの一員だ。Pちゃんはもう自分たちを信用しているから、自分たちが卒業するときだって、
Pちゃんは自分だけが食用肉とされるために食肉センター送りになるとは思わないだろう。
きっと素直に食肉センターのトラックに乗り込み、にこにこしながら出ていくだろう。
そんなこと、どうしてもできないというものでした。
このあと、結末がどうなったかは、どうぞ皆さん、原作を読むか映画の配信をみていただきたいのですが、
この豚が最初、クラスに来たときは、子どもたちにとって単なる家畜に過ぎませんでした。
ひょっとしたら、この豚が教室に来た頃、夜中にこっそりと先生が
他の子豚と入れ替えてもクラスのみんなは気づかなかったかもしれません。
しかし、教室で一緒に過ごし、Pちゃんという名前がついた頃には、一人ひとりの子どもにとって、
この豚は、もう単なる豚ではなく、Pちゃんという唯一の存在へと変わっていったのです。
Pちゃんにとってもまた、クラスの人たちのことがわかるようになっていったのでしょう。
私の地元、神奈川県は、養豚が盛んな県の一つなのですが、
私の知り合いに、大きな養豚管理システムの会社に勤務している方がおられます。
豚のプロであるその方によれば、養豚場で飼われている大量の豚はみんな同じような顔をしていて個性がないというのです。
しかし、ペットとして飼われるようになった豚は、みな違った顔になって来るそうです。
養豚場の豚がベルトコンベアーで運ばれ、ナンバータグで区別されているのに対して、ペットの豚は主人から抱きかかえられ。
名前もあります。名前をつけられ、名前を呼ばれることで、動物でさえ自らが呼ばれていることにきづきます。
養豚場の豚は恐らく一生、名前を呼ばれることはないでしょう。
ペットの豚は毎日、自分の名前を呼ばれ、どんどん自分らしく、その豚らしくなっていきます。
顔に個性が出てきて、他の豚と区別ができるようになります。生き物とはそういうものです。
皆さんもまた、いま、私が呼びかけた「皆さん」と呼ばれるよりも、
名前を呼ばれたときの方が、何か親しさを感じるのではないでしょうか。
私は1学期の終業式で、神様は、土の塵で人を形づくった後、人に近づき、その鼻に命の息を吹き入れられたという話をしました。
神様は自分に似せてかたちづくった土に近づき、身をかがめて、命の息を与えてくださった。人はこうして生きる者となった。
旧約聖書の『創世記』に書かれている話です。旧約聖書の預言書(『エレミヤ書』)の中で、
人類の造り主である神は、「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた」と私たちに語り掛けています。
また、新約聖書の『ヨハネ福音書』には、「わたしは良い羊飼いである。
わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という有名なメッセージがあります。
この「知っている」の意味は、養豚場の管理システムのように私たちをかたまりとして、
あるいは、ナンバータグやID番号として知っているのではありません。
私を私として、あなたをあなたとして、ちょうど先ほどの映画の子どもたちが、クラスの豚を、豚という概念ではなく、
Pちゃんという存在として可愛がり、愛おしく思い、また、憐れんでいたように、神様は私たち一人ひとりを憐れみ、
寄ってきて下さり、話を聞いて下さり、肩を貸してくださいます。
ところで、私はこの夏休みに、冒頭で話した近所の豚ちゃんの飼い主さんと知り合うことができました。
その方は、まあ、なんとも、その家の豚ちゃんを可愛がっており、自慢していました。
皆さんお一人お一人もまた、神様にとって一番の自慢なのだろうと、思います。