学校BLOG
2026.07.21
終業式🌞
本日は終業式を行い、1学期を締めくくりました。
その後は学年集会やホームルームが行われ、一人ひとりに成績表が手渡されました。
この1学期を振り返りながら、夏休みの過ごし方や2学期に向けての目標を考える時間になったのではないでしょうか😊
明日からは、いよいよ本校恒例の「サマチャレ」が始まります。
自分の興味や目標に合わせて選んだ講座で、新しい学びが待っていますね!
サマチャレについては、次の記事で紹介します✨
さて、終業式にて校長からの話もありましたので、皆様にご紹介いたします。
皆さん、おはようございます。
5日前、16日の放課後のことです。
ヌヴェールの小学校でアフタースクールを担当しておられる先生が、お一人、中高まで訪ねて来られました。
わざわざ足を運んでくださったのは、中高の皆さんにお礼を伝えたい、という理由からでした。
その日の放課後、一人の小学生が、学校から香里園駅へ向かう帰り道で転び、困っていたそうです。泣いていたのかもしれません。
そこへ通りかかった中高のお兄さん、お姉さんが、優しく声をかけ、水で傷を拭うなど、手当てをしてくれたというのです。
私はこの報告を受けて、たいへん嬉しく思いました。
しかし同時に、それは決して珍しいことではない、とも思いました。
香里ヌヴェールの生徒であれば、困っている小学生を見かけたとき、きっとそのまま通り過ぎることはないだろう。
そのように思ったからです。
5日前の16日、この行いをしてくださった方が、この中におられると思います。
その方に、小学生とアフタースクールの先生に代わって、心から「ありがとう」と申し上げます。
皆さんが差し出した手は、傷の手当てをしただけではありません。
不安の中にいた一人の小学生に、「あなたは一人ではないよ」ということを伝える手でもありました。
さて、今月初め、皆さんを通して、ご家庭に「よき家庭」という小さな機関紙をお配りしました。
「よき家庭」は、国内のカトリック学校に通う、ほぼすべての児童・生徒と先生方に読まれているものです。
今回、その巻頭に、私が書いた『神様の息のかかったあなたへ』という短い文章が掲載されました。
今日は、この『神様の息のかかったあなたへ』という題について、お話ししたいと思います。
そもそも、「神様の息のかかった」という考え方を、すぐには受け入れられない人もいるでしょう。
科学を学べば学ぶほど、そのように感じるのは、ある意味で自然なことです。
実は、私は大学では物理学を学びました。そして、本格的に物理を学んでいた頃に洗礼を受け、カトリック信者となりました。
聖書は、科学的な書物ではありません。科学、すなわちサイエンスを学べば、そのことは明らかです。
聖書は宗教的な書物です。
科学は主として、物事がどのような仕組みで起こるのか、その原因やメカニズムを問います。
一方、宗教は主として、物事の意味と価値を問います。
人はなぜ生きるのか。生きることには、どのような意味があるのか。なぜ私の命には価値があるのか。
普段は考えなくても過ごせる問いかもしれません。
しかし、ある人の、ある時にとっては、これ以上ないほど深刻な問いとなります。
宗教は、そのような問いに向き合い、人が希望を失わずに生きていくための道を示そうとします。
大昔の人々は、口承によって、時代を超えて変わることのない大切な真理を伝えてきました。
その真理とは、「あなたには価値がある」ということです。
そのことを伝える物語の一つが、聖書の初めに置かれている『創世記』です。
『創世記』によれば、神様は、人を造る前に、さまざまなものを整えられました。
空と海、陸、昼と夜、草花、太陽と月、魚と鳥、木の実や家畜。そして、人が住み、食べ、生きることのできる『エデンの園』です。
すべてを調えた後、神様は人間を造られました。
では、人間は、もともと何であったのでしょう。
聖書には、「神は、土の塵で人を形づくり」(同7節前半)とあります。人間は土から造られた、と記されています。
当時、「土」は「死」の象徴でもありました。
しかし、聖書の言葉は、そこで終わりません。
「主なる神は、土の塵で人を形づくり」は、「その鼻に命の息を吹き入れられた」と続きます。
この短い言葉の中に、神様が人間をどのように見ておられるのかが示されています。
神様は、土から造られた人間に近づき、その鼻に命の息を吹き入れられました。
息を吹き入れるためには、神様は人間のところまで身を低くし、しゃがみ込まなければなりません。
神様は、遠い高みから人間を見下ろすのではありません。私たちと同じ高さまで降りてきて、命の息を与えてくださる方です。
こうして人間は、初めて頭を上げ、まっすぐに生きる者となりました。聖書は、その様子を「人はこうして生きる者となった」と記しています。
私たちは、単なる土の塵ではありません。神様から命の息をいただき、頭を上げ、前を向いて生きる者です。
そして、人間は、ただ生きているだけでは満足できない存在でもあります。
言い換えますと、人間は自分の価値を求め、居場所を求め、自分が果たすべき役割を求めます。
心の奥に、渇きを持っています。
その渇きを知っておられる神様は、人間のために、まず居場所と食物を用意されました。
そして次に、仕事と役割を与えられました。人間をエデンの園に置き、そこを「耕し、守るようにされた」と聖書は記しています。
神様は、人間に何かを要求するよりも先に、人間が生きるために必要なものを与えてくださいます。
この、見返りを求めない愛を、無償の愛、アガペーといいます。
ところで、『創世記』の中の人間は、居場所や食物、仕事や役割を与えられても、まだ何の反応も示しません。
人間が初めて声を上げるのは、「彼に合う助ける者」と出会ったときです。
そのとき人間は、「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉」と喜びの叫びをあげます。
つまり、神様から命をいただき、居場所や食物、仕事や役割を与えられても反応しなかった人間が、
初めて大きく心を動かしたのは、向き合う人と出会ったときでした。そして、人間が最初に表した感情は、喜びでした。
私たちは、今も、この喜びを求めています。
自分を理解してくれる人、自分と向き合ってくれる人、自分の存在を喜んでくれる人を求めています。
その渇きが潤されるのは、人と人とが、神様からいただいた息を合わせ、
「柔らかくて、棘のない、あたたかな心」をもって接するときです。
冒頭で紹介した皆さんの行いも、まさにそのようなものであったと思います。
困っている小学生に声をかけ、立ち止まり、傷を手当てする。
その姿の中に、手助けしている人が意識していなくても、「あなたには価値がある」という神様からのメッセージが表れています。
神様の愛は、特別に大きな行いの中だけに現れるものではありません。
目の前の人に気づくこと、立ち止まること、声をかけること、手を差し出すこと。
そのような日々の小さな行いを通して、神様の愛は、この世界に目に見えるものとなっていきます。
今日で一学期が終わります。
この一学期、思うようにいったことも、いかなかったこともあったでしょう。
嬉しかったことも、悔しかったこともあったと思います。もちろん、思いの他、うまくいったという人もいるでしょう。
しかし、どうであったとしても、皆さん一人ひとりは、神様から命の息を吹き入れられた、かけがえのない存在です。
成績や結果だけによって、皆さんの価値が決まるのではありません。
問題は、それをどう受け止めて、次の行動を起こすかです。神様はそこにも思いをはせておられる方です。
どうか夏休みの間も、自分の命を大切にしてください。そして、自分と同じように、周囲の人の命と存在も大切にしてください。
皆さんが安全に、そして心豊かに夏休みを過ごし、
二学期、再び「柔らかくて、棘のない、あたたかな心」を携えて、この場所に集うことができますように。


