さぁ、新年度の始まりです!

投稿日:2022.04.01

温かい日差しの中、新年度が始まりました。

皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

幼稚園では、新学期に向けて、

教職員一同、ワクワクしながら準備を進めております。

入園・進級式に皆さまにお会いできますことを

心より楽しみにお待ちしております!

 

京都聖母学院幼稚園 園長 寺井 朝子

 




感謝のうちに

投稿日:2022.03.09

いよいよ3月に入り、新しい年度へのカウントダウンに心がワクワクしているお子様もいらっしゃると思います。みんなでお祝いするお誕生会も全て終了いたしました。

お誕生会の時に保護者の皆様にお話ししてきたことは、幼児期はとても貴重で、人生の根幹となる大切な時期であること。周りの人に「褒めてもらう」より「認めてもらう」ことの方が有意義であるということです。

人に認めてもらうこと(承認欲求)は、大人になっても大切ですよね。他人の失敗や間違いにはよく気がつくし、時には「許せない」という思いを持ってしまうことがあります。私たちは、許されていることは忘れがちですが、他人を許すことは、簡単なことではありません。

 

マザーテレサは、「愛」の反対語は「無関心」だと言われました。

私たちは、自分は正しいと思いこんでしまうことがあります。それも大事なことですが、つい神さま(地球や自然と置き換えても可)の存在を忘れてしまい、イエス様という葡萄の木に“つながっている”ということ(宗教的な表現ですみません・・)を忘れて、自分以外の人(モノ・自然)に対して、知らずに、横柄な態度や「思い」「言葉」「行い」をしてしまうことがあります。

関心があるのは、いつも「自分」ばかり?と、までは言わないまでも、心の中に他人や神様が入るスペースがなくなっている時があるのではないのでしょうか。気づかないうちに、見て見ぬふりや聞こえないふりをしていたかもしれません。

「心の貧しい人は幸いである」という言葉の意味がずっとわかりませんでしたが、その逆を考えてみました。もしかしたら、心が貧しくない人は、心の中が自分の事だけでいっぱいなのかもしれない。自分は決して貧しくなんかない!と思っていましたが、どうやら自分の心の貧しさに気づいてなかったのかもしれないと気づきました。

 

イエス様は十字架上で、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」と祈りました。カトリック教会では、今年は3月2日から四旬節(イエス様が十字架につけられて、復活されるまでの40日間)を【回心と償い】の期間として過ごします。

皆様とともに今日まで無事に過ごせたことを神様に感謝しながら、この1年を振り返りたいと思います。

ウクライナの人々や弱い立場に置かされた人たちのために、力を尽くしてくださっている方々のために共にお祈りをいたしましょう。

 




ウクライナへのお祈りと緊急募金について

投稿日:2022.03.08

カトリック京都司教区より
ウクライナへのお祈りと緊急募金の依頼がございました。
ご賛同いただける方は、どうぞよろしくお願いいたします。
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皆様もご存じのように、2月24日から始まったロシアによるウクライナへの大規模軍事侵攻により、これまでに600人近い市民が犠牲となり、100万人に上る人々が隣国に避難していると言われています。

皆様には、先ず、この状況になかにあるすべての人々、また戦火でなくなられた方のためにお祈りをお願いいたします。  また、一日も早い平和的な終結のためにもお祈りをお願いいたします。

カリタスジャパンが、ウクライナの状況と、ウクライナにおけるカリタスの活動を考慮し、〈ウクライナ危機人道支援〉緊急募金の受付を決定しました。寄せられた募金は、ウクライナと、その周辺国で行われる人道支援活動のために活用されます。

下記のURLからカリタスジャパンのHPへ移動し、詳細をご覧の上、カリタスジャパンの口座へ、直接ご支援ください。

 



「使えねぇ」・・・?

投稿日:2022.02.16

転職前日に上司から「使えねぇ」と言われ「あなたが使いこなせなかっただけですよ」と言い放って退職したという話をSNSで見かけましたが、私たち大人も子どもに同じようなことをしているかもしれません。

特に幼児に関しては、自分で何もできない存在だからと、これは「先生」と呼ばれる職業病かもしれませんが、自信もプライドも高い場合は「この私が何とかしなければ!」という熱い闘志が勝ちすぎてしまい、その子の「今」の現実や「今」の思い、心の声に寄り添えていないことがあるかもしれません。

出来心ならぬ親心で、その子のためを思って大人が設定した「ハコ」に押し込むことだけを「善」としてしまっていないだろうか。子どもは、本来ちゃんとしたい、と思って生きているのですが、うまくいかない時もあるのです。

今は、ダメだけど、もう少し待ってくれたら、できるかもしれない。そんな思いがあっても、言葉で上手に伝えることができないのが幼児期です。

それにもかかわらず「使えなねぇ」とは言わないまでも、「なんでこの子はこんなに手がかかる困った子なのだろう」とか真面目な方は「私のやり方のどこが悪いのだろう」と思うかもしれません。

考え方や判断の軸が自分にあるか、軸が相手にあるか、ではないでしょうか。ひどい場合は、「この子は私に合わない」となれば先の「使えねぇ」という上司と同じㇾベルです。

「この子なら大丈夫、今できないだけだよね」と、相手の軸に合わせて「待てるか」、大人(自分)が決めた軸にハマることを「待てないか」の違いかもしれません。

たいていの子どもは、瞬時にして大人の意図をスキャンできます。いわゆる「怒られたらヤバイ人」か「この人は自分を出しても大丈夫な人」か、それを見抜くスキルは。上手に世渡りしながら生きていく知恵の一つですが、こういうことが苦手な子どももいます。

「私に合わない?」「あなたが合わせらないだけでしょう」ということのないよう、とは言え何でもありでは困ります。「ダメなもことはダメ」であります。「放任」ではなく、責任の伴う「自由」を大切にしたいと思います。




信じて待つ、そして行動する

投稿日:2021.11.26

カトリック教会暦では2021年は11月28日から待降節に入りました。幼稚園でも年長さんによる聖劇の練習が始まっています。ご協力くださる保護者ボランティアの皆様お世話になります。どうぞよろしくお願い致します。

 

世の中がコロナ禍であっても、たとえ私たちが忙しく忘れていたとしてもクリスマスはやってきます。はじめのクリスマスは、誰もお祝いの準備などしていなかった「時」に、事前に準備されていない「場所」で、イエス様はお生まれになりました。神様の愛とはそういうものかもしれません。事前に盛大な準備をしたから、立派な王宮だから、という「条件」があったわけではない「時」と「場所」を神様は、あえて選ばれたのかもしれません。

幼児期には、無条件に受け入れてもらえている安心感が必要だと言われます。そこから、自分は何でもできるという全能感が生まれ、自分の好きなことがみつかり、やってみようという主体性の芽が育ちます。その後、小学校低学年くらいまでに、自分以上にできる友だちの存在や、小さな失敗や挫折を味わいながら全能ではない自分に気づいていくのだと思います。

私たち大人にできることは、環境を整えつつも 「信じて待つ」 ということでしょうか。これだけ塾に通わせたから、習い事をさせたから、と条件に見合った成果を求めてしまいがちです。そういう私たち自身も誰かの何かのせいにして、あれこれやらない言い訳するのではなく、イエスの降誕を告げられた羊飼いのように、「信じて行動する」大人でありたいと思います。皆様、良いクリスマスをお迎えください。